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Portrait in hand#11

ポリグロットな詞の森から

林 みどり

Photo: Javier Corbalán

 アルティプラーノの赤茶けた大地を横切り、峻厳な谿谷を渡り、鬱蒼たる樹木のあいだを流れる清冽な水流にのって、嵐を司る神がやってくる。険相な面構えに不似合いな、おちょぼ口をした先住の神は、インカの神々がやって来るはるか以前から、アルゼンチン北西部の民を畏れさせてきた。

 癇癪持ちで、気紛れに豪雨をもたらし、突風を巻き起こす邪悪な神霊。機嫌を損ねるとたちどころに地震を引き起こし、干魃をもたらし、オウムの群れに化身してトウモロコシ畑を荒らしつくす。アルガロボの葉莢の成熟に不可欠な蝉、コジュージョの耳を聾する鳴声を黙らせてしまうのも、この鬼神の仕業である。そうかとおもえば、気の向くままに、とてつもない豊作を授けてくれるこのアンデスの神を、柔らかな語尾をもつカカン語の話者ディアギタス族は、「チキ」と呼んで敬い畏れた。

 やがてインカ帝国のケチュア語と、スペイン帝国のカスティーリャ語のあいつぐ侵略を受けて、ディアギタス族の母なる言語は絶滅させられてしまった。カカン語で伝承された厄災神の記憶もまた、仄暗い森の奥や川底の岩の窪みでひっそりと眠りについた。あれから幾世紀。バスク語を血に湛えた女の歌声に揺り動かされて、夢の片隅でうたた寝してきた土地の記憶が、いま、ここに目覚める。

 《雷鳴のようなチキ神の声はいかようにも变化(へんげ)し、かれらの言語でヤラヴィーを唱う》──。甘やかで湿り気を帯びたシルビア・イリオンドの歌声で、チキが唱うヤラヴィーが呼び醒まされる。インカの旋律ハラウィの詩形と、中世スペインの吟遊詩人の詩形が溶けあったヤラヴィーには、遠い日の思い出や他郷の語りが胎まれている。むろん愛の不在や、逝きし者への哀悼もまた。

 チキ、ウシュータ、サチャ、ヤラヴィー、カパジャン、ウァルペ。時の流れをかいくぐって、神話や土地や民の名としてわたしたちのもとに届けられるカカン語、ケチュア語、グアラニー語の欠片の数々。言葉に宿る土地の記憶を覚醒させようと、イリオンドは国立音楽研究所に潜り込む。所蔵された古い文書の森深く分け入り、降り積もった時の葉の下に隠れている先住の民の微かなひそめきに耳をそばだて、目をこらす。彼女の歌を聴くことは、そうやって丁寧に掬いあげられた詞や音の、かそけき痕跡をたどることに等しい。

 いにしえの記憶は語る。かつて人間は、物的世界とのあいだで互いに交渉しあって生きていた。豊饒な大地も、恵みの雨も、地表を流れる川や水をしぶく岩も、水面に影を落とすオルコ・モージェの樹や可憐な白い花弁も、暮らしの糧を与えると同時にそのものの意志を宿し、ときに抗い、ときに挫かせるものとして存在した。人間などのおよびもつかぬ叡智をたたえて、野生そのものの意志の顕現としてそこにあった。そして土地の民は、誰ひとりとしてそれを疑いはしなかった。

 赤茶けた山肌の奥深くから掘り出された鉄鉱には、銹びた膚を脱ぎ捨てて光沢を取り戻す意志がある。微風に葉がこすれるたびに芳香たつ月桂樹の大樹には、少女を木陰に休ませる意志がある。宵と明けの明星には、明るみの道も闇に沈む道も、生きとし生けるものの道として等しく照らす意志がある。

 詠み人知らずの民衆歌(コプラ)は、こうした野生の意志を感受するレセプターであり、いにしえの記憶を介して、野生の意志をわたしたちに繋げる連結詩(コピュラ)である。イリオンドが作者不詳の民衆歌にこだわりつづける理由はそこにある

 アンデスを臨む北西部ケブラダの美しい大地の色に染めあげられた髪の女は、これからも蕩ける声で歌いつづけるだろう。野生のなかに息づく意志と共鳴しあい、神と野生と人間が分かたれていなかった時代の記憶を、わたしたちの現在に縫い留めるために。

林 みどり(はやし みどり)
立教大学文学部教授。ラテンアメリカ思想文化論研究者。
アルゼンチンを中心にラテンアメリカの文化を思想的な角度から批評。現在はラテンアメリカ地域の記憶の文化や情動の構造に関心がある。著書に『接触と領有 ラテンアメリカにおける言説の政治』(未來社)、共著に『哲学・社会・環境』(日本経済評論社)、『津波の後の第一講』(岩波書店)、『文化接触の創造力』(リトン)など。

Silvia Iriondo(シルビア イリオンド)
デビュー当時からブラジルの音楽家 エグベルト・ジスモンチをはじめとする多くの著名アーティストに認められ、現在はアルゼンチンのネオ・フォルクローレ・シーンで最も世界性をもつシンガーとしてその名は国内外で知られている。これまでに彼女の作品にはカルロス・アギーレ、フアン・キンテーロ、キケ・シネシ、リリアン・サバ、ハイメ・ロス、マリオ・グッソ、セバシチャン・マッキ、マルコス・カベーサス、ホルヘ・ファンデルモーレなど、各音楽シーンを牽引する最重要人物が参加している。また、シンガーとしての実力だけでなく、アルゼンチン・フォルクローレのパイオニアで民俗音楽研究家/収集家でもあるレダ・バジャダレスをトリビュートした作品などもリリースし、アルゼンチンに深く根ざす文化を再解釈しながら新たな光を当てる活動も行なっている。

New Album
Silvia Iriondo & Juan Falú
《ANTIGUO REZO》

2019年7月リリース予定

Silvia Iriondo
《TIERRA SIN MAL》

アルゼンチンのネオ・フォルクローレ・シーンで最も世界性をもつシンガーSilvia Iriondoが、 グアラニー族の理念 『悪なき大地(TIERRA SIN MAL)』の遠い響きに、南米音楽の未来の地平を透視する。Juan Falú, Carlos Aguirre, Rafael Martini, Lilian Saba等、先鋭的アーティストが参加。

LP ¥3,500 / CD ¥3,100(税込み)
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